ikiune diary 日々の出来事

息畝実/イキウネミノルが、その日見たり感じたことを綴ります。

10月16日

天気がいい。

早朝、宿の前のバス停からバスに乗り、20分ほどの松川浦という海沿いの町で降りる。

朝の9時前なのに釣りをしている人が大勢いる。船も4~5台、音を立てて出航していった。

さっきから何匹も大きな魚を釣っている人がいる。この時期はみな鮭を釣りにきているらしい。

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少し歩くと砂浜の海岸沿いに出る。ここには殆ど人はいない。散歩している人が2人通ったくらいだった。

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12時半のバスで相馬に戻る。バス亭でバスを待っていると、近くの理髪店のおじさんが「さっき、あの辺歩いていた?」と話かけてきた。バスが来るまで話す。

 

そのまま夕方までだらだら過ごす。

福島にきてはじめてのんびりした一日を過ごした気がした。

愛について

 

アンティゴネー 私は憎しみあうようには生まれついてはおりません。愛しあうだけです。

 

クレオーン   愛しあわねばならんと申すなら、あの世へ行って亡者どもを愛すればよかろう。余の目の黒いうちは、女の思うようにはさせぬぞ。

 

 

 

 

 

野で吉本ミカが、愛は重荷になるし、憎しみに化けたりすると言っていた。

 

そうかもしれない。多分、間違ってない。

 

 

私は、ただ、あの人を抱きしめたかった。それだけで充分だった。

なのに、、

 

私は、愛のためにあの人にアンティゴネーを演じさせようとした。

それがいつのまにか、あの人を、私だけのものにしたいと思うようになってしまった。

パトリオット劇場が憎しみの対象になった。

10月15日

日差しが眩しい。これから私はずっと、こんな状態でいなくてはならないのか。何故、こうなってしまったのか?

 

たまに、嫌な妄想にかられる。最近特に。

 

原ノ町駅には11時より前に着いたけど、11時代に乗れる電車がなかった。

隣の図書館で時間をつぶそうと思って行くと月曜日は休館だった。

午前中には南相馬から出るつもりでいたけど結局、昼頃までいることになった。

 

どこまでの切符を買うか悩んだすえに相馬までの切符を買った。

相馬駅で降りると、おそらく城下町なのだろう、駅の建物や町の様子で分かった。

相馬駅周辺をぶらぶら歩く。

 

今となっては、別に何処かに目的や用事があるわけでもない。ただ、福島から出るきっかけを探しているのかもしれない。

 

今日は駅から15分ほどの、最近建てられたらしい仮設のビジネスホテルに泊まることにした。

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10月15日

もう戯曲を書くのをやめます。
 
何ひとつ私の思い通りにならなかった。

誰も私を相手にしない。
信頼しあえる友達も話せる仲間もいない。
私にソフォクレスみたいな戯曲を書く才能なんてない。
 
深夜0時、部屋のTVには海外のF1レーサーのドキュメンタリーが映っている。

今夜は6号線沿いのビジネスホテルにいる。

実際には見ていないけど、この道をまっすぐ進むと、7km先は入れない。家があっても人が住んでいない。

 

明朝、南相馬から出る。

もうどこでもいい。疲れた。

少し休みたい。

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10月14日

第三幕の最後、アンティゴネーであることに目覚めた芋名賀りえは母への手紙を海に投げる。これは第一幕のアンティゴネーとイスメネの海辺のシーンでもある。

既に死者の国にいる母に向けて書いた手紙。
ここでの母は何を意味するのだろうか。
 
アンティゴネーにとってのイオカステは世間での常識的な「母」にはおさまらない。
また、ここでは芋名賀りえときえの母親とみることもできるだろう。南相馬に住んでいる二人の若い女たちの私事から始まるのが第三幕の肝だから。
彼女はその「母」への手紙の入った壜を投げる。つまり投壜書簡だ。
これは注目されるべき点である。
私は考える。

アンティゴネーは誰に向けて母への手紙を送ったのでしょうか。


私は、ここでの手紙の宛先はイオカステのみを指すものではないように思います。  

「母」になれなかったアンティゴネーにとって「母」とは何だったのか、ということ。また、どうしてアンティゴネーは「母」になれなかったのか。

それに南相馬に住む、芋名賀りえにとっての「母」。


 

アンティゴネーはどこにいったのか。

この手紙はどこに漂着するのか。

そして、読むのは誰なのか。
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10月14日

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炉粗純。

あの劇団員は何者だろう。名前もどことなく怪しい。

 

演技らしい演技は見たことないが恐らく大根だろう。いや、大根に違いない。彼には大根役者という役を与えてやろう。それこそ適役だ。

そして、息も絶え絶えに、広大なグラウンドのようなところで走り回ることになる。

考えただけで笑いがこみ上げてくる。

私は移動を続けている。バスに乗り、歩きさまよう、あの桑原さなえのように。少しづつ寒くなってきます。南相馬には海から風が吹いてるのか、肌寒いです。

そういえば、ほとんど服を持ってこなかったことを後悔しています。

思えば、あの真夏の新宿から遠くに来たものだ。

 

 

 

 

10月14日

カメラで撮っている映像と現実に私が見ているものとの差異について考える。カメラのフレームに入った時点でどこを切り取るかという選択に私たちは迫られている。

 

彼女たちは喫茶店を営んでいる。

 

設定と台詞について手帳にメモをしながら考える。絵にしてみる。絵にすると零れ落ちる何かがある。自分が生き埋めになっている絵を描く。描いても描いても辿り着けない。

 

大木桃子は観客としてそこにいる。

 

思えば東京から離れて随分時間が経ったものだ。東京、新宿、本屋、私をかつて取り巻いていた環境が遠い幻想のよう。新宿には欲望が堆積している。ラブホテルが群をなしている街。

 

東京で一番不幸な人間を思い浮かべる。

 

見える/見えないについて、単純な視覚ではなく、概念的な盲目性について。私がそこに見ているものは、見ていると「思っているもの」。