10月13日
昼前に原町の駅前に到着して、町の中を歩いていく。小道に入って更に歩くと営業しているのかどうか分からない錆びれた映画館、朝日座がある。
10月8日
今日は取材というか、もう一度飯館から避難している女性にインタビューしにいった。家を追われるとはどういう事か再び深く知りたくなった。もう一度、電車に乗り仮設住宅へ向かいます。
着いてから、この前もらった電話番号にかけてみました。二度かけて出なかったので、仮設の周りを一周ゆっくりまわる。元学校だったこのスペースには二宮金次郎の像や校庭のフェンスが残っている。
その後、入口のすぐ横のベンチに座って着信を待つ。1時間くらい経った頃だろうか、もう一度かけ直してみる。すると、あの飯館の女性の声がします。私はこの前会ったものですと言い、もう一度インタビューをさせてくれないか、と申し出ました。
「今、飯館の家いるから、もう少し待ってくれないか」と言われました。彼女は二週間に一度、家に風を通しにいくらしい。
もう一度、家に上げてくれ、お茶までいただいてしまった。
また飯館の現状や彼女自身の来歴について聞く。お家の人があるTVの投稿番組に出た時の話をしてくれました。
それは、家の下のガードレールからある瞬間にコーンという甲高い音がする現象を紹介したものらしい。
その時、県外からも大勢のひとがやって来て何の変哲もないガードレールに人だかりができたと言います。
けれど、今、飯舘村に住んでいる人はいません。
私はそのガードレールの人だかりが幻だったかのような印象を受けました。あるいは絵本のようなおとぎ話の世界です。勿論、本人から聞いているのだから間違いのないはずなのですが。
私の頭の中では勝手にガードレールの音が聞こえます。見たこともないガードレールから聞いたことのない音が聞こえます。
その音に耳を澄ますことで、飯館と繋がれる、気がしました。
10月3日
福島に滞在しながら考えを巡らしています。アンティゴネーのこと、私が書いている戯曲のこと。書けない時は苦しく途中挫けそうになります。それでも何とか書き進めようと思う。その繰り返しです。
本屋に立ち寄り、本をぱらぱら捲っていたら、ブラッドベリについて書かれている次のような文章に出会った。
時間的概念としてのブラッドベリ宇宙を支配しつつある主たる症状は、この「さみしさ」という病気である。もちろん、それを「病気」とするのは、正しくないかもしれない。この宇宙にあっては、「さみしさ」を病んでいるのが常態であって、それ以外の場合は考えられないからである。あるいは、もっと言えば、我々の宇宙を宇宙たらしめているそれが、「さみしさ」とその法則性であるかもしれない。我々はその法則性と通じることによってのみ、その宇宙の深みを垣間見ることが出来るのかもしれないのである。
ともかく、空間的な概念の中にあっては、ひとつの病気であり、衰弱の表徴でしかない「さみしさ」が、時間的な概念の中にあっては、ひとつの力であり、智恵であり得ることをブラッドベリは、教えてくれているようである。
今の自分の気持ちを表しているようでもある。さみしさを私は背後に常に感じています。
最近はお金が無くなくなりました。どんどん食べない方向に向かっています。飢えと空腹との戦いです。
もうすぐ宿も追われ、野宿するのことになるだろう。しょうがない。自分で選んだ道なのだから。